孝儀潤皇后令妃の死因を史実を元に調べてみました。
また中国ドラマ「如懿伝」と「エイラク」同じ清朝乾隆帝の時代を描いたドラマですが見比べてみると、かなり登場人物のキャラも違っています。
孝儀潤皇后令妃の死因から「如懿伝」と「エイラク」の比較。乾隆帝の3人の皇后の史実も徹底調査しました。
この記事でわかること
- 孝儀潤皇后の死因は?発掘調査で明らかに!
- 「如懿伝」と「エイラク」の人物の比較
- 3人の皇后の史実とは
順番に解説します。
目次
孝儀純皇后令妃の死因とは?発掘調査で明らかに

歴史的記録によると、乾隆帝39年の終わりに乾隆帝と共にレーエから宮殿に戻った後、「魏英羅」は病気になり、乾隆帝40年目の最初の月の29日目に亡くなりました。 49歳。
病気による彼女の死としているが、発掘された「魏英羅」の死体を調査した後、考古学者はこれが当てはまらないことを発見しました。
彼女の体はよく保存されているので、100年前と同じように生き生きとしていて、彼女の体は決して腐っていません。
専門家は調査の結果、「魏英羅」の遺体に黒い斑点があり、死ぬ前に毒殺されていたと推測されたのですが、誰が彼女を毒殺したのか?
乾隆帝は「死後も体が腐らないことを保証できる」と信じていたため、「魏英羅」が死後も若々しい姿を保つために乾隆帝が中毒させていたと言われています。
実際、数百年が経過しており、本当の状況を確認する方法はありません。
中国ドラマ「如懿伝」VS「エイラク」の違い
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「継皇后ナラ氏」良き妻vs豹変する要注意人物
「如懿伝」で嫻妃となる如懿は、後宮の陰謀にさらされながら乾隆帝への愛を胸に強く生き抜く女性として描かれています。
「エイラク」での嫻妃も最初は不幸や屈辱にじっと耐えているように見えていました。
しかし、自分を虐げた者たちへの復讐心や一族の恨みを胸に、優しい笑みを浮かべながら、その裏で冷酷無比な事を平気でやってのける恐ろしい女性へと変貌する姿で描かれています。
「富察皇后」裏表のある人物VS慈愛にあふれた人格者
「如懿伝」では富察皇后は表向きは品が良く立派な皇后で、後宮の尊敬を集める人物に見えます。
エイラクの富察皇后がエイラクを助ける堂々とした人格者とは大違いで、如懿伝の富察皇后は裏では皇后の位を失うのではないかとビクビクしている小心者になっています。
乾隆帝の寵愛を受ける如懿を恐れ、彼女を失脚させようと画策します。
しかも、自分で直接手を汚さずに、妃が次々と陰謀を繰り出すのをバックアップするというそのやり口です。
(私的にはエイラクを見た後では富察皇后のイメージが壊れちゃいます!)
「孝儀潤皇后」野心で悪に走る悪人VS正義のヒロイン
如懿伝では如懿を虐げるラスボスとして描かれているのが令妃となる衛エンエン。
エイラクでは正義のヒロインとして皇后へと上り詰めるストーリー。
如懿伝の衛エンエンは一介の女官ながら同郷の恋人を捨てて、乾隆帝の寵愛を得る計算高い女性として描かれています。
どちらも身分の低い出身から皇后になるのは同じです。
如懿伝のモデルはだれ?
如懿伝の主人公、如懿のモデルは乾隆帝の2番目の皇后、継皇后です。
烏拉那拉如懿が本名であり、この名前の如懿が如懿伝になっています。
孝賢純皇后とはどんな人?
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生年月日:1712年3月28日
没年月日:1748年4月8日
享年36歳
姓:富察(満州語:フチャ)
名:不明
称号:孝賢純皇后
清朝第6代皇帝乾隆帝の皇后です。
愛新覚羅弘暦(後の乾隆帝)に嫁ぎ、嫡福晋(正室)となりました。
乾隆帝が即位すると、皇后に立てられ、乾隆11年(1746年)乾隆帝の第七子 永琮を出産するが翌年に夭折しました。
皇后は嘆き悲しみ、皇太后(孝聖憲皇后)に同行して泰山へ行幸したが、その際に 病気になり、乾隆13年(1748年)に亡くなったそうです。
乾隆帝は皇后の死を悲しみ、皇后のため悼亡詩を作ったといわれています。
ドラマエイラクでは内心自由に憧れつつも皇后としてもとめられる姿を演じようとして悩み自殺したことになっています。
孝賢純皇后の人柄
孝賢純皇后は私利私欲で働くことがなく人々から尊敬される人物でした。
側室に対しても嫉妬をせず、また節約にも熱心でお金を自分のために使うことはありませんでした。
宝石類を身につける代わりに造花や野生の花で髪を飾っていました。
乾隆帝にとって理想の皇后でした。その後も乾隆帝の寵愛を受けた女性はいましたが、乾隆帝自らは皇后にはしなかったと言われています。
ドラマ「エイラク」では常に優しい皇后で、自分に仕えるエイラクを大切にして教育しますが、これは史実です。
孝聖憲皇后とはどんな人

清の第5代雍正帝の側室で、乾隆帝の生母・皇太后。満洲鑲黄旗のニオフル(鈕祜禄)氏の出身。父は四品典儀官の凌柱(リンジュ)。
生年月日:1692年
没年月日:1777年
姓:ニオフル
称号:孝聖憲皇后
孝聖憲皇后の史実
13歳の時にドロ・ベイレ(多羅貝勒)のドゥイチ・アゲ(四阿哥、第四皇子)胤禛(後の雍正帝)の邸宅に輿入れし、ゲゲ(格格:一番地位の低い側室)となりました。
名門氏族の出身ながらも、父親の身分は高くなかったので、嫡福晋・ウラナラ氏はもちろん側福晋である年氏や李氏よりも位としては下でした。
雍親王(胤禛)が病を患ったとき、ニオフル氏はかいがいしく看病し、それがきっかけで寵愛を受けたといいます。
康熙50年(1711年)には四子・弘暦(後の乾隆帝)を雍親王府で出産しました。
弘暦が10歳の時、雍親王が弘暦を連れて牡丹を観に円明園に赴き、康熙帝に謁見すると、弘暦は康熙帝に気に入られ、皇帝自ら皇宮で養育します。
これにより、ニオフル氏は雍親王の寵愛をさらに受けたといわれています。
雍親王が即位(雍正帝)すると、ニオフル氏は側室・熹妃になりました。
景仁宮に入り、雍正8年(1730年)にはさらに熹貴妃に封じられ、側室の中では最も寵愛をうけました。
雍正9年(1731年)に孝敬憲皇后が逝去すると、宮中のことを取り仕切りました。
雍正13年(1735年)雍正帝が病死すると、息子の弘暦が皇帝に即位、熹貴妃は皇太后になりました。
乾隆42年(1777年)、慈寧宮で崩御。享年86。死後、孝聖慈宣康惠敦和誠徽仁穆敬天光聖憲皇后の諡号を贈られましたが、あまりにも長いので、孝聖憲皇后と呼ばれます。
ドラマ「宮廷の諍い女」は若い頃の孝聖憲皇后が主人公になっています。
清高宗継皇后とはどんな人

清高宗継皇后(しんこうそうけいこうごう)は、清の乾隆帝の2番目の皇后。継皇后ナラ氏(けいこうごうならし)ともいいます。
実姓は烏喇那拉(ウラナラ)あるいは輝發那拉(ホイファナラ)と言われます。 満洲鑲藍旗の出身でネルブ(訥爾布)の娘。
他の呼び名は、嫻妃。嫻貴妃。
生年月日:1718年
没年月日:1766年
姓:輝發那拉(ホイファナラ)
別名:烏喇那拉(ウラナラ)
地位:継皇后、嫻妃
清高宗継皇后の史実
輝發那拉(ホイファナラ)氏は新王朝第6代皇帝・乾隆帝の側室で、のちに皇后になりました。
乾隆帝より7歳年下。乾隆帝が新王時代に側福晋(側室)となりました。
乾隆2年(1738年)、嫻妃になり、乾隆10年(1745年)、嫻貴妃にりました。
乾隆13年(1748年)、乾隆帝の最初の皇后である孝賢純皇后が亡くなると皇貴妃となり、乾隆15年(1750年)に皇后になりました。
乾隆帝の母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の権限で決められたそうです。
乾隆17年(1752年)に十二男永璂を、乾隆18年(1753年)に五女を、乾隆20年(1755年)に十三男永璟を出産するが、そのうち永璂だけが成人しました。
清高宗継皇后の没落
乾隆30年(1765年)、乾隆帝の江南巡幸の際、帝の怒りを買って直接北京に送り返されました。
一説には当時の満洲人としては禁忌であった断髪をしたことが皇帝及び皇太后への呪詛とみなされたといわれています。
帰京後のナラ氏は、廃后の詔書こそ下されなかったが、事実上皇后位を廃されました。
乾隆31年(1766年)、死去しましたが、皇后としての葬儀ではなく皇貴妃の格式で執り行われ、乾隆帝の裕陵には葬されず、諡号もつけられませんでした。
唯一の子である永璂も乾隆帝の寵愛を失い、親王あるいは郡王という身位を一切与えられませんでした。
まとめ
この記事では孝儀純皇后の死因を史実から明らかにして記述しています。
また中国ドラマで人気の如懿伝とエイラクの人物想定の違い。
新王朝第6代皇帝乾隆帝の皇后・孝賢純皇后・清高宗継皇后(継皇后ナラ氏)と、乾隆帝の生母・孝聖憲皇后の史実をまとめました。
孝儀純皇后はどんな人?史実についてはこちらで詳しくまとめています。
孝賢純皇后の人柄は、史実でも優しい皇后でした。
清高宗継皇后(継皇后ナラ氏)が髪を切ったというのも史実です。
輝發那拉(ホイファナラ)氏が死亡した時、葬儀は皇室の一員として行われたのですが、規模は小さく、出席者の数も少なかったと史実として記されています。